終戦を迎えた3年後の昭和23年は、現在の三越定禅寺通り館の建つ場所で、亡き父が起業した年でもある。旅館業を中心に、キャバレーや輪タク、理容業等と不況の時代だからこそ大衆に受ける事業を次々と展開したことを子供ながらにも覚えている。一番町四丁目も三越を中心に、東北でも有数の繁華街として栄え始めたのもちょうどそのこ頃と記憶している。そして、時代の変遷と共に仙台の街も変わり、大型店を核とした街づくりが人の流れをも変える時代に入っていった。定禅寺通りに住む我々も市街地再開発組合を設立し。17年の歳月を費やし、ファッションドーム141を昭和62年に完成させた。
ちょうどその頃、杜の都の代名詞で日本の道100選にも選ばれる、新緑美しい定禅寺通りではあるが、冬になるとケヤキ並木が落葉し寂しくなる、何とかしようという思いで始めたのが仙台光のページェントである。初代実行委員長に任命されるも前途はまさに多難であった。欅の本数140本に電球を30万個、総費用は約5千万、規模は当時ニューヨークに次ぎ世界で2番目、勿論日本一となるものの資金はゼロ。今思えば若さだけが後押しをしていた。
その後141がオープンし、販促のイベントとして一流ジャズメンを招きライブをはじめた。後に多くの皆様の協力と参加者でギネスブックにも掲載される程になったのが定禅寺ストリートジャズフェスティバルである。そして、昨年で15回目を迎えたみちのくYOSAKOIまつり。よさこい発祥の地高知県の大学に通っていた亘理町出身の若者の情熱が我々を動かし、開催時は33チームで始まった祭りも現在は200チーム、9千人が乱舞するようになり、日本でも、5本の指に入るようになった。大変嬉しいのは、全国から踊り手として参加される皆様がもう一度仙台に来たい!と言ってくれることである。
この3つのイベントに携わってきた経験は小生にとって大きな財産である。街の活性化を望む次代の若者たちにも是非とも経験してほしいと切に願いたい。古い時代のものがリメイクされ新しい時代を動かす、これからの祭りにはこんな共通点があると思う。
皆様どうでしょう!日本一国分町まつりでもやりませんか?そのときは是非ボランティアとして交ぜて下さい。
次回は、宮城県議会議員 相沢 光哉氏