代表取締役研究所長 中川原寛一
私は昭和53年6月12日午後5時14分に発生した宮城県沖地震(M7.4)を国立療養所西多賀病院で経験しています。この時も電柱が大きく左右に揺れ、地面に立っていられないほど揺れました。停電で道路は車のライトをつけても真っ暗で、二軒茶屋の公務員宿舎に5時間かかってたどり着いた記憶があります。
ところが平成23年3月11日に発生した東日本大地震は全く比較になりません。揺れが一向に収まらない凄さ。何が起きたんだという不安が大きかったことを思い出します。
研究所は産業道路をはさんで「夢メッセみやぎの向かいにありました。変電所辺りから水しぶきが見え、瞬く間に木々の上を越えた津波が産業道路から研究所まで押し寄せてきました。
3月11日の夜は寒くて2階の部屋の床に段ボールを敷いたり、身体に巻き付けたりしながら夜を明かしました。翌朝1階を覗くと壁という壁、ドアというドアは完全に破壊され什器や設備の全てが押し流され、全て泥の海水に浸っていました。
兎に角、一刻も早く職員を自宅に帰さねばと思い全員自宅待機ということで翌朝何とか帰しました。
震災から3日目、ふと気がつくと研究所に一人、また一人と10km、15Kmの距離を歩いてきたという者。また在る者は津波で車を無くしたため、自転車で一時間、二時間かけて研究所に来てくれる。停電、断水で自分が食べるだけでも大変なのに私が研究所で寝泊まりしている事を知って塩だけで握ったと言って、おにぎりを差し入れてくれました。結局なんだかんだと言って、皆がおにぎりを持ってきてくれました。こんなにも「お米が美味しい」のかと思いましたし、とても「嬉しかった」。
いつの間にか自宅待機の職員全員が泥まみれの什器、書類、実験台などの洗浄。がれきの撤去、掃除を毎日毎日。津波の泥は「海の砂、軽くてくっつきやすかったり、細かい微粒子も含まれている」ために洗っても洗っても中々きれいにならない。結局3週間続きました。
研究所は休業状態なのに毎日集まってくる職員の顔は明るく、再起に向けて私の背中を押してくれました。会社はボートみたいなもの、皆乗組員、震災から7日目にそれを見た気がしました。そういう職員のためにも、3月25日は給料日、その日までに何とか給与送信しなければと思っても経理、帳簿、給与台帳全て失って途方にくれていたところ、被災を知った七十七銀行扇町支店の及川君と支店長が見舞いに来られました。ご自身のことで大変だったにもかかわらず、及川君には本当にお世話になりました。
今は「生きとし生けるもの全てに感謝です。」
次回は、辻・本郷税理士法人 仙台支部 伊東雄太氏