震災時以降に再認識した「絆」と私たちにかけがえのない「健康」の共通点について記します。私は宮城学院女子大学で栄養学を教えています。管理栄養士を目指す一年生の授業の中で「健康」についてのとらえ方を武者小路実篤の「人生論」の一節を引用して、講義を進めています。その一節を抜粋して紹介します。
- 人間は健康になれば肉体の苦痛は感じないようにできている。
- 歯がいたい時は人は歯の存在を忘れることはできない。しかし、歯がいたくない時は、人は歯を忘れている。
- 健康の価値は病気して始めてわかる。しかし、健康になってしまえば、もう健康のことは忘れる。人生にとって健康は目的ではない。しかし、最初の条件なのである。
「健康」を失った時に苦痛が生じ、「健康」を認識し、「健康」取り戻すと苦痛がなくなるために「健康」を意識しなくなってしまうことを述べています。「熱がある」、「のどが痛い」といった症状が出る感染症と異なり、糖尿病などの慢性疾患は発症するまでの期間は「苦痛」という自覚がありません。したがって、健康を失いつつあるのに「健康」を忘れていることもあります。この「苦痛」を持たない、潜在的に不健康な方に「今の状態」を気づいてもらうことが大切ですが、これは厄介です。この厄介な「健康」と「絆」、少し、次元は異なりますが、共通点を感じます。
震災が起きるまで、私は日常の生活で「絆」を強く感じることはありませんでした。震災時、震災後に非日常的な多くの出来事を経験しました。このような経験の中で、「絆」を強く感じるようになり、今でもその思いは消えていません。震災を経験し、復興半ばの状態にある今、自然な形で「絆」を感じることができますが、少しずつ、その感覚も薄れていくかもしれません。
「健康」を維持するには「健康」であることに対する感謝の気持ちを有することが必要と思います。「絆」も同じことがいえるような気がします。「健康」も「絆」も私たちが社会生活を送る上での最初の条件、つまり土台です。福沢諭吉が「心訓」の中で、「世の中で一番尊いことは、人のために奉仕し、決して恩に着せないことです。」と記しています。震災以降強く感じた、恩に着せない「絆」をこれからも忘れず、「健康」を前提に学生を教育しつづけようと思います。
次回は、仙台ひと・まち交流財団 仙台市富沢市民センター館長 藤原 英幸氏