第60回 第62回

随想第61回

中田 久義 仙台慕情 (株)アルカディア 代表取締役 中田 久義

仙台と言えば、「杜の都」が代名詞 なるほど豊かな緑に包まれた都市として強く印象に残っています。私が初めて仙台を訪れたのは、昭和三十八年、新婚旅行のときでした。
当時は、多くの駅がそうであるように仙台駅も西側だけ青葉通り、広瀬通りなど新緑の街路樹を敷き並べて街並みが展けていました。
今からふり返れば、何しろ五十数年も前のこと、それも仙台は《みちのく》の通過点とあって、もっぱら関心は新たな人生の伴侶にありて

「女(をみな)とは かかるものかも 春の闇」

「よもすがら あいふれし手は ふれしまま」

(草城)

「みどりの街並木」の印象以外、記憶に残っているものはありません。

《往時茫々》

次に仙台に歩を入れたのは、東京に本社を置く、ある地質調査会社に就職してからでした。折しも高度成長期のピーク時、本社の人事担当として仙台支店を訪ねました。
支店長の出迎えを受けて、仕事の後、宿泊したのは広瀬通りに面して、国分町の入口にあるホテル、リッチ(当時)でした。
その夜、必然の成り行きで、国分町のクラブへ誘われることになりました。
とあるクラブへ招き入れられ、胸元から二の腕まで露わな、嬋娟夭々たる美女群に取り囲まれたとき、生来、女性に免疫のない私は、たちまち羽化登仙の気分に包まれ、以来「杜の都」仙台は、国分町の仙台となり、いまだに《仙台》は国分町のイメージに取り憑かれています。

かにかくに 杜の都は恋しかり

並木の空に 星のまたたく

(祇園に生まれ、祇園を愛した男爵、吉井勇の「かにかくに 祇園は恋し 寝る夜も 枕の下を 水の流るる」をもじったつもりです)

その後、平成に入ってから調査会社を去り、海外に遊ぶこと十数年、帰国してからは幾つかの事業を手がけ、そしてこの度新たな事業として、建設の基礎工事に用いる型枠として「Eパネット」という鋼製型枠を全国に普及させることを目的に新会社を立ち上げることになりました。幸い知己を得て、仙台にも支店を出すことになりました。
三たびの仙台は、相変わらず「杜の都」であり、四季折々の変容を見せながらも街路樹の新鮮さは目を洗われる感動を伴います。
さて、そこで国分町は傘寿を過ぎても、枯れようもない愚生にとって、三たび回春の夢を見せてくれるであろうか。

次回へつづく